SNS、もう「ちゃんとしなくていい」時代の幕開けか?
「好き」が仕事になる新しい流儀
いつからだろう、SNSに何かを投稿するたびに、心のどこかで「ちゃんとしたものを出さなきゃ」って、見えないプレッシャーを感じるようになったのは。まるで、自分の人生が誰かに採点されるテスト用紙みたいに。完璧な写真、練り上げられた文章、スキルの結晶としての作品。それらが「仕事」に繋がるための最低条件だって、いつの間にか信じ込まされてた気がする。
でも、ちょっと待ってほしい。本当に、そうだろうか?
最近、僕の周りで不思議な現象が起きている。まだ「作品」と呼ぶには早いような、日常のささやかな「好き」の表明や、思考の断片。そんな「ポートフォリオ未満」の些細な発信から、思わぬ形で仕事の依頼が舞い込んでいる人たちがいるんだ。彼らは、完璧な自己プロデュースなんて意識してないのに、むしろその「未完成さ」や「生っぽさ」が、新しい仕事を生み出している。これは一体、どういうことなんだろう?
専門用語解説:「ポートフォリオ未満」とは?
ここで一度、キーになる言葉を定義しておきたい。僕が言う「ポートフォリオ未満」とは、一般的な意味での「ポートフォリオ」――つまり、自身のスキルや実績を証明するために meticulously(細心の注意を払って)まとめられた作品集や経歴書とは一線を画すものだ。それは、未完成のアイデアスケッチ、衝動的に書いたX(旧Twitter)のつぶやき、Instagramのストーリーでシェアされた日々の気づき、まだ誰にも見せていないnoteの下書き、あるいは趣味で描いた落書きなど、自身の「好き」や「興味関心」が滲み出る、もっとラフで個人的なデジタル上の痕跡全般を指す。まだ「プロの仕事」と呼ぶには早いかもしれないけれど、そこに込められた熱量や個性、可能性こそが、未来のクライアントやコラボレーターの目に留まる、という新しい価値観のことだ。
「ちゃんとしてない」が「ちゃんとした仕事」になるパラドックス
完璧主義を手放したら、依頼が降ってきた話
世の中には、いつだって「こうあるべき」という常識がまかり通っている。仕事だってそうだ。「きちんとしたポートフォリオを作れ」「自分のスキルを証明しろ」……。頭では分かっている。でも、そうやって完璧を追い求めれば追い求めるほど、僕たちは足がすくみ、最初の一歩を踏み出せないでいる。SNSで何かを発信しようとするたびに、指が止まってしまう。そんな経験、一度や二度じゃないだろう?
でも、最近、そんな「こうあるべき」の呪縛から解き放たれ、自分らしく振る舞うことで、むしろ思いがけないチャンスを掴んでいる人に出会った。これは、僕が以前取材で知り合った、陽菜さん(仮名)の話だ。
陽菜さんは、都内の大学に通う20代前半の女性。グラフィックデザインに強い興味を持ち、独学でIllustratorやPhotoshopを触ってはいたものの、専門的な学校に通った経験はない。昔からファッション誌を読み漁るのが趣味で、特に表紙のデザインワークには憧れがあった。「いつか自分も、こんな素敵なデザインができたらな」と漠然とした夢を抱いていたけれど、それを「仕事」にすることなんて、まるで遠い世界の物語だと思っていたらしい。
そんな陽菜さんが密かに始めたのが、自分のInstagramアカウントでの「Re-Designチャレンジ」だった。これは、既存の雑誌の表紙や広告を、もし自分がデザイナーだったら、という視点で再構築してみるという、いわば「妄想デザイン」の遊びだ。「プロじゃないし、誰かに見せるようなクオリティじゃない」という思いから、本格的なポートフォリオサイトを作るでもなく、ただ自分のインスタグラムのストーリーズや、フィードの隅っこに、ひっそりと投稿していた。
「今日読んだ雑誌、もし私がデザインするならこうかな?」
「このカフェのメニュー、フォントを変えるだけで印象変わるかも?」
そんな軽いキャプションと共に、iPadでサッと作ったモックアップ画像をアップする。時には、街中で見かけたポスターに「もし自分が担当するなら」という視点で、即席のデザイン案をストーリーで公開することもあった。投稿もバラバラで、統一感なんてまるでなし。その時の気分で、好きなものを好きなようにデザインしては、発信する。もちろん、最初は「いいね」が数件ついたり、友達からのDMで「面白いね!」と言われる程度。それでも陽菜さんは、自分の「好き」をアウトプットする作業そのものが楽しくて、それを続けていた。
しかし、ある日、状況は一変する。
彼女のインスタグラムの投稿を見ていた、小さなアパレルブランドの広報担当者からDMが届いたのだ。
「いつも拝見しています。特にRe-Designチャレンジの投稿が、私たちのブランドの世界観と非常にマッチしていると感じまして。あの“生っぽいけれど、芯のある”デザインセンスに惹かれました。大変恐縮ですが、もしよろしければ、弊社の新商品プロモーションで、ウェブ広告用のバナーデザインをお願いできないでしょうか?もちろん、正式なポートフォリオはまだ拝見していませんが、SNSの発信から陽菜さんの才能と情熱を感じ、ぜひお願いしたいと思いご連絡いたしました」
陽菜さんは最初、詐欺かと思ったという。自分が「素人」だと思っていたのに、まさか仕事の依頼が来るなんて。でも、そのブランドの世界観は、陽菜さんが以前Re-Designした雑誌とテイストが似ていたこともあり、胸の奥で何かがくすぶった。これは、もしかしたら、自分が本当にやりたかったことの「入り口」かもしれない。そう考えた彼女は、勇気を出してその依頼を受けてみることにした。
結果的に、陽菜さんのデザインしたバナーはブランドのターゲット層に深く響き、高いクリック率を記録した。この実績を足がかりに、小さな仕事が少しずつ舞い込むようになる。まだ「プロ」と胸を張って言えるほどではないかもしれない。でも、陽菜さんは「ちゃんとしたポートフォリオ」を作ることに時間をかけるよりも、自分が本当に「好き」で、衝動的に表現したものが、かえって共感と信頼を生み出すことがある、という新しい発見に驚きと喜びを感じていた。
「未完成」だからこそ伝わる熱量と可能性
陽菜さんの話は、僕たちがSNSで発信することの意味を、根本から問い直してくれる。なぜ「完璧じゃない」どころか、「ポートフォリオ未満」のラフな発信から、ちゃんとした仕事が舞い込むのだろう?
僕が思うに、それは、SNSというプラットフォームの特性と、現代のクリエイティブ市場が求める価値の変化が関係している。
従来のポートフォリオが「すでにできること」を完成された形で示すものだとすれば、陽菜さんのような「ポートフォリオ未満」の発信は、その人の「現在地」と、そこから見えてくる「これから」の可能性を示すものだ。クライアントは、完成品を見るだけでなく、その制作過程や思考の断片から、その人が持つ「伸びしろ」や「個性」、そして何よりも「好き」という純粋な熱量を見出している。
完璧な作品は、確かに技術の高さを示す。でも、そこに作り手の人間性や、そのアイデアに至るまでの試行錯誤の過程が見えづらいこともある。一方、「ポートフォリオ未満」のラフな発信は、まるでSNSの投稿のように、もっとリアルタイムで、共感を呼びやすい。
クライアント側からすれば、「この人はどんなインプットをして、どんなことを考えているのか」「どんなものに心が動くのか」という、いわば「思考のポートフォリオ」のようなものを見ているのかもしれない。完成されたデザインよりも、「この人と一緒に、これからどんな面白いものが作れるだろう?」という未来への期待を抱かせやすいのだ。
そして、発信する側からしても、心理的なハードルが格段に低い。「完璧じゃないから出せない」という足枷が外れ、「好きなものをとりあえず出してみよう」という、もっと自由なスタンスで発信できる。その気軽さが、結果として継続に繋がり、思わぬ出会いを引き寄せているのだ。
「ちゃんとしてない」からこそ生まれる、新しい「信用」
共感と可能性が未来を拓く
陽菜さんのエピソードが教えてくれるのは、僕たちがこれまで信じていた「信用」の築き方が、もしかしたらアップデートされつつあるのかもしれない、ということだ。かつては、完璧な実績や輝かしい経歴が信用を生んだ。でも、今はどうだろう? SNSの海に散らばる「ポートフォリオ未満」のラフな発信は、まるで僕たちの思考や感情の断片をそのまま届けてくれる。そこには、取り繕われた「プロの顔」ではなく、もっと人間らしい「あなたらしさ」が滲み出ている。
クライアントが陽菜さんに惹かれたのは、彼女の完成された技術だけではなかったはずだ。彼女が「好き」という純粋な衝動に突き動かされ、既存のものを「もし自分なら」という視点で再構築しようとする、その思考プロセスそのものに共感したのだ。まだ荒削りかもしれないけれど、そこから無限の可能性を感じ取った。SNSで僕たちが求めているのは、もはやただの情報や技術の提示だけじゃない。そこから透けて見える、その人の「人間性」や「価値観」、そして「一緒に何か面白いことができるかもしれない」という未来への期待だ。完璧主義の殻に閉じこもるよりも、正直に「好き」を表現する方が、よっぽど雄弁に、そして深く、あなたの可能性を語りかけてくれる。
今日から始める「ポートフォリオ未満」発信術:たった一つの問いかけ
「好き」を止めるな。それだけが、あなたを動かす。
じゃあ、僕たちは今日から何をすればいいのか? 完璧なポートフォリオを作り始めることだろうか? いや、違う。もっとシンプルだ。僕が伝えたい、ただ一つのメッセージはこれだ。
「あなたは何に心が動く? そして、それを、ただ表現してみよう。」
それだけだ。形式は問わない。
Instagramのストーリーで、心惹かれた風景に一言添えるだけでもいい。
X(旧Twitter)で、読んで感動した本のフレーズを引用し、自分の解釈を数行で書き連ねるだけでもいい。
noteの下書きに、頭の中でぼんやり考えているアイデアを吐き出すだけでもいい。
スマホのメモ帳に残した、いつか作りたいもののアイデアスケッチを、写真で共有するだけでもいい。
誰もが認める「作品」である必要はない。誰かの評価を気にする必要もない。ただ、あなたが「これ、いいな」「これ、面白いな」「これ、もっとこうなったらいいのに」と、心の底から思ったことを、その熱量のままに、デジタル上に放り投げてみる。
それは、あなた自身の思考のアーカイブであり、感情のログだ。そして、それが巡り巡って、あなたという人間を形作る「ポートフォリオ未満」の塊となり、共鳴する誰かの目に留まる。あなたの純粋な「好き」が、思わぬ形で次の扉を開く鍵になるのだ。
最後に:もう「ちゃんとしなくていい」
SNS疲れの原因は、僕たちがSNSに「ちゃんとした自分」を見せようとしすぎたことにあるのかもしれない。完璧な自分を演じ、完璧なアウトプットを求めた結果、身動きが取れなくなっていた。
でも、もうそんな呪縛は捨ててしまおう。
「ポートフォリオ未満」の時代は、あなたが「ちゃんとしなくていい」と教えてくれる。
「好き」という熱量さえあれば、それは十分な情報であり、十分な表現だ。
あなたの「好き」が、誰かの「好き」と繋がり、やがて、まだ見ぬ仕事やプロジェクトへと繋がっていく。
さあ、恐れることはない。
あなたの、未完成で、時に拙くても、胸の奥から湧き上がる「好き」を、
そのまま、世の中に放り投げてみよう。
それが、新しい時代を生きる僕たちにとっての、最強の武器になるはずだから。

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